東京春祭のセルゲイ・ババヤンのリサイタル@上野文化会館小ホールを聴きに行った。
バッハ(ブゾーニ編曲)やシューベルト(リスト編曲)を含めてロマン派のピアニスティックな作品が並ぶ重厚なプログラムであった。演奏自体も低音を土台にロマンティックで骨格の太い音楽を表出していた。それぞれ非常に面白かったが、彼との相性が抜群なのはやはりラフマニノフだったと思う。「音の絵」と「楽興の時」から二曲ずつ、テクニカルな曲が選ばれていた。音楽のとらえ方が大きいことは類なく、音楽を拍ごとというよりも小節ごとにとらえるような感覚がある。そのために聴き手は底知れぬ広がりを感じることになる。例えば楽興の時の終曲Op. 16-6の演奏では八分音符の「ソ・シ・ラ・ラ♭・ソ」という音型がどうしても前面に聴こえてくるのが常だが、ババヤンはそれよりも和音をベースにしたさらに大きなまとまりをベースに表現するので、音楽のより大きな流れが感じられる。
そのような大きなスケール感が表出することが可能なのも、彼の音楽には凄まじい推進力があり、超絶的な指さばきがあるからだ。こう書くとアルゲリッチを想像する向きもあるかもしれない。実際、二人の演奏スタイルには共通点があり、二人が共演しCD録音もしているプロコフィエフには息をのむような迫力がある。しかしアルゲリッチがラテン的で明晰な表現をするのに対し、ババヤンは暗い情熱と大きなスケールが特徴であり、その点では対称的な存在である。アルメニア出身の彼はどんな音楽を表現するのにも深い感情を掘り起こさずにはいられないようにみえる。
プログラム後半のクライスレリアーナは、シューマンが心の微妙な揺れ動きを表現した作品であり、ラフマニノフのロシア的スケール感とは無縁の音楽である。彼のこの曲に対する解釈は非常に独特なものであった。私はこれまでに数知れぬほどこの曲の演奏を聴いてきたが、8曲ともどの演奏とも違うアプローチであった。第3曲や第5曲のアゴーギグはちょっと不思議な感じだし、第1曲や第7曲の非常に速いパッセージの弾き方もユニークだ。しかし少し聴いていくとそれぞれが彼の内面の深いところから必然的に湧き出てくる表現であることがわかる。シューマンの音楽の持つメランコリックな感情がそこには確かに表現されていた。一方で幸せを表現したような第2曲の主題の演奏からは、繊細さと心の温かさというババヤンの別の一面が強く印象づけられた。アンコールはバッハのゴールドベルクのアリア(主題)であった。静謐と均衡の世界が絶妙に表出され、聴衆はホロリとさせられた。