6月25日(日)、浜松に出向いてガジェヴのショパンのピアノ協奏曲第2番を聴いた。
ショパンは若い時にピアノのための協奏曲を二曲書いたが、その二曲は対照的な性格を有している。第1番はより技巧的で華やかでスケールの大きい曲だ。そこでは練習曲Op. 10の12曲で試された技巧が各所に使われている。当時、ピアノ協奏曲といえばピアノの華やかな技巧を披露するというのが定番であった。第1番はそのスタイルを踏襲している曲だと言えよう。
一方、第2番は詩的で、内面的で、情緒的だ。ノクターンやマズルカなどの小品がその下敷きになっていて、それらのいわばサロン風の音楽を協奏曲というスケールの大きな形式に統合した作品だと、私は考えている。
ショパンのこの二曲の協奏曲はリストの二曲のピアノ協奏曲ほどには極端な「陽と陰」「外向的と内向的」といった対照性を示しているわけではない。しかしそれでも、二曲の間にある微妙な差異からショパンの深いメッセージが読み取るべきだと思う。ショパンがより聴衆を強く意識して作曲したのが第1番で、より私的なメッセージを込めたのが第2番ということだ。
ガジェヴのような知的かつ内面的なピアニストがコンクールで第二番を選んだのは当然に思える。彼がショパン・コンクール本選で演奏したショパンの第2番のピアノ協奏曲の録音を何の予備知識なしに聴いた人は、それがコンクールの演奏であるなどとは全く感じられないだろう。そこには音楽に奉仕しようとしている若いピアニストの真摯な姿しかうかがえない。もちろん本人は恐ろしいプレッシャーの下で演奏していたに違いないが、聴き手はただただ美しいショパンの音楽の世界を味わった。
今回の浜松でのガジェヴのショパンのピアノ協奏曲第2番の演奏は、ショパン・コンクールでの彼の本選の演奏をも大きく凌駕する快演だったと思う。そこには、より一層繊細なニュアンスが与えられ、表現がより大胆になっていた。奥行きとスケール感が生まれて、音楽が自由にはばたいていた。
第1楽章では技巧的な十六分音符のパッセージが活躍するが、ガジェヴが奏するタッチには細やかな配慮があり、変幻自在な表情を見せる。音符の一つ一つに意味が与えられており、音楽が有機的につながっていく。もちろんその背景には卓越したテクニックやタッチの美しさがあるわけだが、それは言わずもがなのことであろう。
第2楽章は若きショパンが書いた奇跡のような美しい音楽である。ピアノが高音部で奏でるメランコリックで夢見るような主題がとにかく魅力的だ。楽章を通じて細かい音符が様々な表情を見せていくが、それらは単なる装飾ではなく音楽の本質を成す。ピアノの技術と音楽がまさに一体化しているのである。ガジェヴはそれぞれのフレーズに絶妙なロマンティックな味わいを加えていった。彼の精神が昨年よりさらに自由にはばたいていた姿を目の当たりにして、私は彼の成熟を感じ取った。中間部のドラマチックな部分も大胆な表現で聴かせた。
第3楽章では軽快なリズムに乗った表現が楽しいが、それだけに終わらずに、様々なニュアンスも表出されていてより重層的で味わい深い音楽となっていた。
そして広上淳一が指揮する富士山静岡交響楽団の演奏がとても良かった。ショパンの協奏曲のオケパートはややもするとピアノを引き立てるだけの伴奏みたいになってしまうものだが、全くそういうことはなかった。トゥッティでは団員全員が全力で表現して、説得力があった。また、ピアノとの掛け合いで、ピアノが自由にルバートをするところも、絶妙に合わせていて感心した。
アンコールはショパンの前奏曲Op. 28-4ホ短調とドビュッシーの練習曲集からアルペジオの為の練習曲だった。特にドビュッシーがすごかった。ドビュッシーの練習曲集は彼の晩年の作品で、抽象的で晦渋だと言われることが多い。確かに前奏曲や映像などの中期の傑作に比べて突き放した感じがあることは否めない。練習曲の場合、ピアノのテクニックがその課題の中心にあるので、多彩な音楽にはなりにくい。
しかしこの曲ではガジェヴは一般的な練習曲の演奏とは全く異なるアプローチで聴かせた。出だしの右手の分散和音では一つ一つの音の響きを分離させて星のようにキラキラと輝いていたのにまず驚いた。その後も、無機的に陥ることは一切なく、音楽が自由に羽ばたいていた。
私にはこんな物語が展開していったように聴こえた。森を歩いていた。すると小川が流れていたり、鳥がきてすーっと飛んでいったり、動物に出くわしたりした。こんな森の様々な表情の変化を楽しんだあと、私は平和な帰路についた・・・。
ドビュッシーが提示しているさまざまなアルペジオのパターンが、ちょうどそれらのエピソードのように私には聞こえた。それはガジェブが多彩な音楽を引き出してくれたからに他ならない。
一般的にアルペジオはややもするとさらっと単調に弾かれてしまうのだが、ガジェヴは全体の流れは大事にしつつも、一つ一つの音のニュアンスに神経を研ぎ澄ませて、多彩な表現を作り上げていた。アルペジオとメロディーという二元論ではなく、音楽が全体として有機的につながっていた。彼の自在な楽しい表現を聴いていると、彼はこの曲を舞曲のようにとらえていたのかもしれない、などとも思った。どうだろうか。
ガジェヴは2015年の第9回浜松国際ピアノコンクールの覇者であり、浜松にとっては特別な存在であるのだろう。私のすぐ後ろに座っていた女性陣はキャーキャー叫んでいたし、イタリアの国旗を振りかざしていた女性の二人組もいた。地元のピアノであるシゲルカワイを好んで弾いていることも浜松の人にとっては嬉しいことに違いない。
世界トップクラスのピアニストとしてキャリアを着々と積んでいっているガジェヴは、世界の宝であると感じる。ぜひ順調に成長していってほしい。